移住して気づいた、庭のある暮らしの魅力──
幼いころ、畑のとなりで暮らしていた
私は田舎で育ちました。
実家のすぐ隣には、祖父母が手入れしていた畑がありました。
季節が変わるたびに、そこには新しい野菜が顔を出して──
土のついた大根の白さ、鈴なりのトマトの赤、スナップエンドウのごちゃごちゃ。
どれも、目にも舌にもはっきりと記憶に残っています。
夕方の畑で、まだ少し温かい土の上にしゃがみ込んで、芋を掘る。
その手についた泥のにおいも、今でも忘れられません。
近所の川に釣りに行くときは、その畑を少し掘り起こし、エサ用にミミズを捕まえていました。
あの頃は、それが「暮らし」だとは思っていませんでした。
ただ、あたりまえの日常だったのです。
京阪神のアパート暮らし──土のない数年間
大学進学と就職で、しばらくは京阪神エリアで一人暮らし。
ベランダ越しに見えるのは、空よりも隣の建物の壁。
畑の土臭さは遠くなり、季節の変化はカレンダーとイベントが教えてくれるような日々。
けれど、あるとき無性に「何かを育ててみたい」と思い、
小さなプランターにニニトマトの苗を植えてみたんです。
それが妙にうれしくて、朝の水やりがちょっとした楽しみになっていました。
あの頃の私は、どこかで“育てる感覚”に飢えていたのかもしれません。
実家で自然に触れていたことの尊さに、離れてはじめて気づかされました。
再び田舎へ──庭と出会い直す
いま、実家の近くに自分で設計したマイホームを建てて暮らしています。
庭には芝生(と草)が広がり、その一角にはささやかな家庭菜園も。
トマトやナス、ピーマンを植えて、娘が幼い時は一緒に耕したり水をまいたり、
犬が走り回ったり──そんな日常に、また出会えたことが、何よりのよろこびです。
畑ほどの広さはありません。
けれど、朝に庭へ出て、土の匂いをかいで、
葉っぱに溜まった露を見つけたときの、あの小さな感動は、
子どもの頃と変わっていませんでした。
庭が教えてくれる、暮らしの「間」
都会にいたときは、何もかもを効率よく片づけるのが当たり前でした。
朝は時間との勝負で、夜は仕事の残りが気になって落ち着かない。
「時間をつくる」のではなく、「時間に追われて生きる」日々。
でも、今は違います。
朝起きて、まず空の色を見る。
少し伸びた草には目を瞑り、空気の温度で季節を感じる。
そしてその肌間の極端さと幅広さに時々季節を間違えつつ、
そんな玄関先の1コマで不思議と一日が整うようになりました。
庭があると、暮らしのなかに“間”が生まれます。
その“間”こそが、人の心にとっての栄養なのだと、今は思うのです。
家の外に、もうひとつのリビングを
「庭って、使いこなせる自信がなくて」と、お客様から相談を受けることがあります。
わかります。
私も、最初から上手くできたわけではありません。(今も)
でも、庭は“使いこなす”ものではなく、“付き合っていく”ものだと思います。
毎年違う顔を見せてくれるし、うまくいかないこともある。
それでも、そこに手をかける時間が、確実に日々の温度を変えてくれるんです。
庭は、家の外にある、もうひとつのリビング。
家のなかでは味わえない季節の風や、静かな時間が流れています。
小さな菜園が、暮らしを育ててくれる
家庭菜園といっても、大げさなものではありません。
たとえば、プチトマトを2〜3株。
それだけでも、子どもが「今日は赤くなったかな」と覗き込み、
取れたてをそのままパクッと食べる。
これ以上ない産地直送。
畑 to キッチン。
それだけで、会話が増えます。
手をかけたぶん、返ってくる。
その関係が、家庭にも、住まいにも、やさしく伝わっていく気がしています。
家づくりは、暮らしづくり。
暮らしづくりは、日々の積み重ね。
もし今、家を建てようと考えている方がいれば、
ほんの少しでもいい、庭のある暮らしを思い描いてみてください。
あなたの毎日に、きっと、静かであたたかな変化が生まれるはずです。